今日はギュスターヴ・モロー作《出現》について、答のない幾つかの疑問を語ります。

《出現(L'Apparition)》
1876年、水彩、紙、105×72cm、パリ、ルーヴル美術館
1876年のサロンに出品されたこの作品は、賛否含めて、非常な評判を集めたようです。
私は現在大学で、モロー作《死せる竪琴》の研究を進めたいと考えています。
でも、実はほんの1年前まで、モローには大して興味を持っていませんでした。
そんな私が、モローについて調べ、関心を持つようになったきっかけが、この《出現》です。
《出現》の主題は、聖書にある聖ヨハネとサロメの物語。
ヨハネは、ヘロデ王と后ヘロデヤとの近親結婚を非難し、投獄されます。
ヘロデはそれでもヨハネを畏れていましたが、ヘロデヤはこの件でヨハネを憎んでいました。
ある日、ヘロデの誕生日の宴で、ヘロデヤの娘(サロメ)が舞を舞い、褒美を貰うことになります。
サロメは母ヘロデヤに唆され、ヨハネの首を所望。 ヨハネはやむなく斬首されます。
聖書には「ヘロデヤの娘」とあるだけで名前も書かれていない、母親の傀儡としてのサロメ。
そんな彼女が、19世紀後半には、エロチックな踊りを披露し、自らの邪な欲望で聖人の首を求める
「ファム・ファタル=宿命の女」へと変貌します。
《出現》におけるサロメも、宝石類のみを身に纏ったあらわな姿で踊っています。
彼女の衣装や宮殿の豪華な装飾には、当時のサロンでも相当の反響がありました。
水彩とはこれほどきらびやかな色彩を表現できるのかと、絵の描けない私は驚嘆するばかりです。
しかし、《出現》の独自性は、サロメや豪華な描きこみよりもむしろ、宙に浮かぶ首にあります。
血の滴る生首がサロメと対峙する、という奇抜な作品は、モロー以前にはおそらくありません。

この首については、処刑された後に盆から飛び上がったものであるという説と、処刑される前に
デジャヴュとしてサロメの前に現れた幻である、という解釈があります。
どちらの解釈も、ヨハネの首がサロメだけに見える幻(Apparition)だとする考えは同じです。
サロメ以外の人物は、ヘロデも、楽人も、剣を携えた兵士も、首に気づいた様子がありません。
この作品の主題は、あくまでサロメとヨハネの対峙であると言えるでしょう。
ただ、サロメの斜め後ろにいるヘロデヤだけは、本当に首に気づいていないのでしょうか。
ヘロデヤの視線と、ぎゅっと握られた手は、何も意味していないと言えるでしょうか。
《出現》と共にサロンに出品され、これも好評を博したのが《ヘロデ王の前で踊るサロメ》です。

1876年、油彩、カンヴァス、144×103.5cm、ロサンゼルス、アーマンド・ハマー・コレクション
エキゾチックな神殿のような空間。むせ返るような没薬の薫りが充満していそうです。
一風変わった《出現》に対して、こちらの作品はサロメの踊りという伝統的な主題を扱っています。
サロメは豪華な衣装を纏い、手に蓮の花を持ち、爪先立ちしてしずしずと舞っています。
彼女の衣装といい室内装飾といい、この作品には《出現》よりもオリエンタリスムの香りが濃厚です。

《ヘロデ王の前で踊るサロメ》には、おびただしい数のデッサン類が残されていますが、
《出現》の方には、わずか数枚のデッサンしかないようです。
そのため、《出現》はある段階で「踊るサロメ」から分離、発展した作品だと考えられています。
主題的にはわかりやすい《ヘロデ王の前で踊るサロメ》と比べると、《出現》の奇抜さが際立ちます。
実は《出現》は、本来ならば日の目を見ないはずだった作品でした。
作品の余白には、「エスキス(下絵)だから公開すべきではない」という旨のメモが書かれています。
実際、ヘロデヤの頭やヘロデの衣裳は、鉛筆以上には描き進められていません。
ではなぜ、この未完成の《出現》は、サロンという重要な発表の場に出品されたのでしょうか。
《出現》には、水彩の作品のみならず、油彩で描かれた未完のものがあります。

1874-76/97年、油彩、カンヴァス、142×103cm、パリ、ギュスターヴ・モロー美術館
モローはおそらく、《出現》を《ヘロデ王の前で踊るサロメ》と対にして発表したかったのでしょう。
水彩の《出現》は、この油彩のためのエスキスだったはずです。
油彩作品が期日までに完成せず、やむなく出来の良い水彩画を出品したというところでしょうか。
でもなぜ、《出現》は結局未完のままになったのでしょう。
サロンでの評判に気を良くし、油彩作品を仕上げて再び世に問うたとしてもおかしくありません。
油彩の《出現》は、色と線が乖離したまま、未完成作品として完成されたかのようです。
《出現》は、モローにとって、どのような位置付けを持つ作品だったのでしょう。
水彩の《出現》では、サロメは、右手を鎖骨のあたりで握り、左手を首の方へ伸ばしています。
この仕種は、一体何を意味するのでしょうか。
生首(の幻)への恐れとも、ヨハネへの欲望とも、対決の決意とも決定しかねます。
一方油彩の《出現》におけるサロメの表情からは、恐怖や驚愕はあまり読み取れません。
むしろ、毅然とした面持ちに見えるのではないでしょうか。
水彩の《出現》と油彩の《出現》。
これらは果たして、同じ意味が込められた作品だったのでしょうか。
「出現」というテーマを通して、モローが真に描こうとしたヴィジョンは一体何だったのでしょう。
疑問は膨らむばかりですが、残念ながら今のところそれらをきちんと論じることはできないようです。
仮に論を組み立てることができたとしても、裏付けの中途半端な空論になってしまうでしょう。
新たな資料が発見されないかなぁ…
いつか自分がこれらの謎を解き明かしてみたい…なんて、今は妄想に耽るばかりです(笑)
<参考文献>
・喜多崎親「ギュスターヴ・モローの《出現》に就いて」 『美術史』 133号、1993年2月、pp.15-29
・利倉隆『エロスの美術と物語 魔性の女と宿命の女』 美術出版社、2001年
・J・K・ユイスマンス著、澁澤龍彦訳『さかしま』 河出文庫、2002年
・展覧会図録『ウィンスロップ・コレクション フォッグ美術館所蔵19世紀イギリス・フランス絵画』 2002年、pp.37-49
・MATHIEU Pierre-Louis, Gustave Moreau. Monographie et nouveau catalogue de l’œuvre achevé, Courbevoie, ACR,1998